2022-06-04
民事訴訟における弁護士の重要な仕事の一つとして、準備書面(民事訴訟法161条)の作成があります。準備書面とは、当事者の主張を裁判所や相手方に伝える大切な書面です。
この準備書面の内容や方式については、「~を記載しなければならない」といったように、訴訟の段階に応じて、いくつかの明確なルールが法定されています(民事訴訟規則79条、80条及び81条。なお、訴状については民事訴訟法133条、同規則53条)。
これとは別次元の話として、一般にこういった準備書面が望ましい、といわれる、ルール未満の、いわばお作法のようなものがあります。
そのなかの一つに、準備書面の文章は、冗長でなく、意味するところが一義的に明確で、論理的であるべき、というものがあります。
言い換えると、不必要に長い文、読み手次第でどうにでも解釈できる文、きちんと道筋を立てて論じていなかったり論理の飛躍や欠落がある文は、好ましくない、といわれています。
これは、準備書面の性質に理由があります。準備書面とは、先に述べたとおり、裁判所や相手方に対し、当事者の主張を伝えるためのツールです。
読み手としてまず想定される裁判官は、日々多くの事件を同時並行で処理することが求められる職業です。そのうえ、一日のうち一定時間は、法廷に立っていたり、判決書を書いていたりしなければなりません。当然のことながら、その時間は準備書面を読むことはできません。
つまり、多くの裁判官は、時間をかけて一通の書面を読み込むことが物理的に困難であるということです。
また、同じく読み手として想定される相手方としても、弁護士であれご本人であれ、お忙しいことに変わりはないでしょう。
時間をかけられない方々に読んでいただくのに、短すぎたりあいまいな文章では、伝えたいことが伝わらなかったり、不正確に伝わってしまうおそれがありますし、確認を要するなど余計な手間も増えます。だからといって、文章が長すぎると、かえって一番伝えたい部分が流し読みされ、伝わらない、ということがありえます。
以上のことから、弁護士の間では、当事者の主張を正確に伝えるため、上で述べたような、短いのにわかりやすい、過不足のない文章が一般的には好ましい、といわれるようになったと考えられます(もちろん、例外はあります)。
読み手の立場に立って文章を作成すると良い、ということは、訴訟に限った話ではなく、広く一般にいえる話かと思います。
今回の記事は、読みやすい文章になっていたでしょうか。完
2021-11-24
2021年7月の都議会選挙において、複数回に亘る無免許運転の事実を秘して、当選した
木下氏が、辞職しました。
その会見で、問題となったのが同席弁護士による「都議会銀によるいじめ」と、「理不尽な対応」という二つのコメントです。ネット上で炎上中とのことです。
なぜ、こういう評価が出てきたのか、弁護士が依頼人の利益を図る立場にあるとはいえ、見識に欠けるコメントについて、分析してみました。
まず、世間の「辞めなさい」という大合唱と、同席弁護士のコメントの前提条件が大きく離れています。
世間の関心は、無免許運転の事実が投票前に明らかになっていれば、当選しなかった。だから、当選後、法的にやめさせる規定がなくとも、道義上辞任すべきである、という点にあります。
これに対し、同席弁護士は、この点を、意識的かどうか、スルーし、当選自体に瑕疵はなく、辞める法的理由はない、という前提で、形式的に議論を進めています。
ですから、議論がかみ合うはずがありません。
それでは、同席弁護士として、今回の対応は、適切だったのでしょうか。
まず、木下都議が、再度、政治の世界に戻ってくるつもりであれば、不適切といわざるを得ません。日本の文化は、潔さを重視します。問題点を意図的にずらし、周囲を非難する対応に、世間は呆れるばかりか、長きにわたって、この無神経さを忘れないでしょう。
木下都議が、政界に戻る意思がないのであれば、「鼬の最後っ屁」として、笑って済ませるかもしれません。しかし、政界以外の世界でも、木下都議に対する評価が上がることはないでしょう。
次に、世間の関心は、木下都議の道義的責任の取り方にあるのですから、ここをスルーするわけにはいきません。人として誠実さの問題です。ここで、道義的責任はない、と言い切るのであれば、理不尽発言や、いじめ発言も許容される筋でしょう。
しかし、道義的責任を認めながら、法的には当選に瑕疵がないかと議論を進めるのは、筋が通りません。道義的責任とは、辞職であり、当選に瑕疵がないことを前提とする「理不尽」発言や「いじめ」発言は矛盾するからです。
まぁ、4か月近く雲隠れし、責任ある対応を示さなかった人間が、師と仰ぐ知事の言葉によって、辞職を決めたとしても、あまりに遅すぎた決断といわざるを得ず、何より、それまでの木下都議の不誠実な対応は、消すことのできない不祥事というほかありません。
2021-11-22
当事務所の最寄り駅は,東京メトロ丸ノ内線の淡路町(あわじちょう)駅,都営新宿線の小川町(おがわまち)駅,東京メトロ千代田線の新御茶ノ水駅となります。これら三つの駅は,地下でつながっており,乗換も可能です。
また,JRの場合は,御茶ノ水駅,秋葉原駅,神田駅それぞれから大体徒歩10分前後となります。
ところで,淡路町駅は千代田区神田淡路町に,小川町駅は千代田区神田小川町の近くにあるため,これらの駅名がついたのだと思っていますが,そもそもこれらの地名は,どのような由来なのでしょうか。
神田という地に,遠い淡路という名がつくのはどういうことなのだろう,川はないのに小川町とはどういうことなのだろう,と思い,探していたところ,千代田区のウェブサイトに由来が書かれておりましたのでご紹介いたします。
まず,淡路町は,江戸時代,このあたりに鈴木淡路守の屋敷があり,屋敷の前の道が淡路坂と呼ばれていたことにちなんでいるそうです。
次いで,小川町については,その昔,このあたりに小川が流れていた,あるいは「小川の清水」と呼ばれる池があった,ということが由来のようです。
少なくとも今はその形跡はなく,なんとなく不思議な気もいたします。とはいえ,町名として採用されたということは,やはりそれにちなむ何かがそこにはあったということなのでしょう。
千代田区神田には,ほかにもたくさんの町名があります。それぞれに由来があるようですので,調べてみるとおもしろいと思います。
2021-11-05
今週から寒くなってまいりました。もう二月もすればウィンタースポーツの季節になります。私もスキーが趣味であり、スキー場のオープンを待ちかねています。
さて、スキー場においては、スキーヤー、スノーボーダーなど多くの人が滑っており、時に利用者同士の接触事故が起きます。本日は、その一例について、どちらに法律上の責任があるのか解説したいと思います。
この点については、最高裁判所の判例(最高裁第二小法廷平成7年3月10日、裁判集民事)があります。
事案の概要は、スキーで大回りで滑っていたYに対して、Yの上方からYよりも早いスピードによりスキーで小回りで滑っていたXが衝突し、Yが転倒して負傷したというものです。
この事件の1審、2審はXの過失を認めませんでした。
これに対して、最高裁は、以下のように判示して、Xの過失を認めました。
「スキー場において上方から滑降する者は、前方を注視し、下方を滑降している者の動静に注意して、その者との接触ないし衝突を回避することができるように速度及び進路を選択して滑走すべき注意義務を負うものというべきところ、前記事実によれば、本件事故現場は急斜面ではなく、本件事故当時、下方を見通すことができたというのであるから、被上告人は、上告人との接触を避けるための措置を採り得る時間的余裕をもって、下方を滑降している上告人を発見することができ、本件事故を回避することができたというべきである。」
スキー、スノーボードどちらにしても、通常後ろを見て滑ることはなく、下を滑っている者が上方からの滑走者を避けることは難しいです。他方、上方滑走者はターンして進行方向を変える、停止するなど衝突を回避することができる場合が多いです。そのため、基本的に上方滑走者の責任が重くなります。
実際に、上方滑走者に10割の過失を認めた裁判例があります(東京高裁平成18年12月7日・判時1973号55頁、さいたま地裁熊谷支部平成30年2月5日・判タ1452号179頁、等)。
しかし、例外的に下方滑走者にも同等の責任が生じる場合もあります。例えば、東京高裁平成24年12月19日判決(ウエストロー・ジャパン2012WLJPCA12196002)においては、下方滑走者が転倒後に停まることができたにもかかわらず、停止せずにコースを斜めに横切るように滑り続けた危険性を重視して、下方滑走者に5割の過失を認めています。
滑るときは周りをよく見て、安全に注意して滑りましょう。
2021-09-04
いやいや、下村という人間も立候補すというので、立候補するなら政調会長
辞めろ、と脅したら、狙い通り、立候補を取り下げおったわい。次に、岸田という
有力な対抗馬となる者が、世間受けを狙って二階降ろしに動いたので、こちらも先に、
わしが二階の首を切ってやった。これで岸田のアッピール度は落ちるだろう。
さらに党内人事を一新することで滞留した空気を一掃できるだろう。
ただ、問題は、過去の遺物ともいうべき安倍と麻生が前回ほど、わしのために
積極的に動いてくれないんじゃ。
民心が離れても、この二人を抱き込めば、現職のわしが落ちることはない、
わっはっはっ。
(一夜明け・・・)
ここまで、あれやこれや仕込んでおいたのに、すべて水泡に帰すほど、実は援軍がない
ことが分かり、自分こそ裸の王様であることがわかりました。
さて、どうするか。この状況では、現職として立候補しても、福田の二の舞になりかねない。
それはとっても恥ずかしい。何が何でも落選という事態は免れたい。
そうか、立候補辞退、ということにしよう。その理由は、「新型コロナ対策に専心するため」
としよう。よし、これで何とか生き恥をかかずに済む。めでたしめでたし、と一人
ほくそ笑む『菅』代官であった。
2021-09-04
新型コロナ感染防止とオリパラ開催、両立できます。
新型コロナ感染防止と自民党総裁選挙、両立できません。
そうか、世界的なオリパラ開催より、日本国内の一政党の
総裁選の方が大変なんですね。
2021-09-03
幼少の頃から料理を趣味としています。
料理のジャンルは様々ですが、主に、お菓子作り、生パスタ作り、ぬか漬け作りを15年近く続けています。
このような趣味を生かし、これまで料理会等のイベントに参加し、下記写真のような苺のタルトを始めとする様々な料理を多くの方々に提供して参りました。
食べ手の気持ちを考えながら試行錯誤して料理内容を考案し、料理のお披露目の際に食べ手の驚きと喜びの表情を見ることや、料理を通じて公私を問わず多くの方々との縁を繋ぐことが、作り手にとっては何よりの楽しみです。
また、最近においては、2歳の長男が生パスタの生地作りを手伝うようになり、日々、子供の成長を実感しております。
私にとって料理とは、このように人と人を繋ぐツールであり、これからも大切にして参りたいと思います。
ケルビム法律事務所
弁護士 尾﨑 順
2021-06-28
弁護士にとっての大事は、正確な事実の把握です。また、異なる立場からの考察が不可避です。その結果、自分の価値観と異なる主張に対しても、立場が異なれば、こういう見方も十分ありうるね、となります。
その場合でも、その主張の中に嘘が混じっているときはどうかなと思います。特に、世論に対して一定の影響力を待つと思われる方の発言に関しては、それはおかしいでしょう、と思います。
そのよい教材が、経済学者竹中平蔵氏の表題の発言です。
氏は、その理由の一つとして、1920年4月にベルギーで開催されたアントワープ五輪を挙げます。すなわち、世界中で多数の死者(3千万人とも5千万人ともいわれています。)が出たスペイン風邪の中でも、アントワープは開かれた、だから東京五輪も開催して問題ない、というのです。
しかし、この主張は事実が違います。欧米では、1919年下半期には収束していました。
しかも参加国は、29か国。第一次大戦でベルギーを蹂躙したドイツ、オーストリアの参加は認められませんでした。
これに対し、東京五輪は、100か国以上の参加が見込まれ、先進国の中でも最もワクチン接種が遅れ、とても新型コロナをコントロールしているとは言えない状況です。その日本でどうして安全な大会を開くことができるのでしょう。しかも、100年前と比較して医療技術ははるかに進歩しているにもかかわらず、6月24日時点で、感染者約1億8千万人、死者約390万人、インド株の変異型が新たに感染拡大している、という状況です。
同じ事実を前提に、異なる評価はありと考えます。立場が違うからです。しかし、反対論を叩くのに事実をごまかしてはどうでしょう。いただけませんね。
また、竹中氏は、国が全世界に向かって約束したことだから、国内事情を理由にして約束を破ることはできない、ということも五輪中止を求める世論が間違いとする理由の一つに挙げていました。
これも法律家の立場から見ると、竹中氏は法お律を全く学んでいない、ということが分かります。竹中氏が拠って立つ国家至上主義の立場であっても、法的な知識があれば、このような主張が決して普遍的ではない、ということが分かります。
それは、約束した時点では予想だにしないことが生じた場合、契約内容の変更を認める、という考え方です。今回のような新型コロナウィルスの感染拡大は、誰もが予想していなかったことです。国家か決めたことであれば、どんな状況でもやり遂げなくてはいけないというのであれば、それは第二次世界大戦中、最大の愚とされたインパール大作戦を現代においても貫徹することと大した違いはないのではないでしょうか。
国家の威信を守るためには、国民の10人や20人死んでもやむを得ない、という薄ら笑いを菅総理の背後に感じるのは、心配性が過ぎる、ということでしょうか。
2021-05-13
髙橋氏は、2021年5月9日、新型コロナウィルスの新規感染者数を各国のそれと比較したグラフを用いて「日本はこの程度の『さざなみ』。これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイートしました。
世の多くは「さざなみ」という表現を問題視します。他方で、この発言を童話『はだかの王様』の「何も着ていない」という子供の発言に例えて、真実を言っただけ、と擁護する立場もあるようです。
紛争の解決を目指す仕事柄、相手の立場を考えることが日常である私の感覚では、「評価」は人様々であり、高橋氏の表現は、なるほど、こういう評価もあるのね、と受け止めます。もとより、当該表現の当不当、好き嫌いはあるにせよ、です。
確かに、事実として、例えば、イギリスの感染者数、死亡者数に比べ、日本のそれらは約10分の1です。アメリカのそれらと比較すると、日本の場合は、約100分の1です。
この発言で、最も問題なのは、前提条件の違いを一切捨象し、特定の部分だけを取り上げて、批判する、その前提として高橋氏の評価が正しいのだ、とする点です。「笑笑」という表現は、まさに、「世の愚か者たちよ」、という優越感に浸った上から目線のもの、ととらえるのは、かたよりすぎでしょうか。
氏の発言で取り上げられているのは、「新型コロナウィルスの新規感染者数」と「五輪」
の二点です。このうち、感染者数は同じ土俵で比較対象としてもおかしくありません。しかし、「五輪」はまさに日本で行われるもので英国やアメリカでは開かれません。この事実の違いを無視して、五輪中止の是非を論じるのは、いかがなものでしょう。
感染者数という絶対値は、英国に比べ圧倒的に少なくても、現実にワクチン接種の遅れ等により感染をコントロールできていない日本の状況下で、新たに世界中から大勢の選手や関係者を受け入れることは、更なる感染拡大につながるのではないかと心配することは、むしろ、当たり前だと思います。
氏の「笑笑」という表現に、高橋氏の人としての「傲慢さ」を感じるのは私だけでしょうか。『はだかの王様』の子供になぞらえて、高橋氏を擁護する立場も、五輪開催による感染拡大の危険を考慮していない点で、不適切と受け止めています。
2021-03-12
皆さんは、勤怠管理をしっかりやっていらっしゃいますか。
現場の方々の良心に任せているような場合、往々にして、勤怠管理の甘さを逆手に取られて、未払い請求や残業支払い請求という形で、訴訟になるケースがあります。
「なんて恩知らずな」と元従業員を罵っても、後の祭りになりかねません。裁判の帰趨は、もっぱら証拠の有無にかかわるからです。
裁判所に行けば、真実が明らかになる、というのは幻想にすぎません。当該紛争を経験していない裁判官は、どうやって法律を適用する前提となる事実の認定をするのでしょうか。それは、証拠の積み重ねによる事実の再構成です。人が行う裁判は、実験が効く自然科学と異なり、再現実験ができません。殺人事件を再現してみましょう、というわけにはいきません。
ですから、会社を経営する皆さん、勤怠管理をしっかりやりましょう。